無題 2

仏の顔をした
鬼の仏の行い
鬼の顔をした
鬼の鬼の行い
仏の顔をした
仏の鬼の行い
仏の顔をした
仏の仏の行い
このうちどれが
私の行いか
出来れば
始めか終わりがいい
もしくは
どれでもないのがいい
でもそれを
私は望めるけれど
私が判断することは出来ない
地球儀がぐるぐる回って
誰かの指が
ちょんと押した
その時にならないと
分からない
くるくる回って
ぎゅっと絡み付くのか
ぴかっと光るのか
その時にならなければ
分かるまい

安心

なにひとつ同じ事がおきない
この世のなかで
今日も
同じ日々を繰り返す
ひとつが終わる前に
次の予定を立てて
それまでの間
誰かと待ち合わせ
パズル合わせが
出来るということ
安心があるということ
そっと手を触れて
押し出してしまえば
テーブルから落ちていって
こなごなに壊れる
ガラス細工のような
もろさを含む
この世の中で
誰かと何の疑いもなく
待ち合わせられるという
不思議
そういう素晴らしさを
可能にしているのは
己にとって大切な人
信頼し合える人が
自分が存在する
この世で
どういう訳か
生きているという
そういうことに
因るのでしょう

いつかのピアノ

校舎の奥に眠っていた
ピアノは
幾つかの傷を負いながら
八十八年前間音を奏でていた
そのピアノは
放置されていたのではない
長い休符を保っていたのだ
入学と卒業の
短いサイクルを見つめながら、
長い間
学校と共にいた
ピアノは放置されていたことを
責めない
ピアノはいつでも演奏しているのだ
それにようやく気付いた人間は
彼がより高らかに声を上げられるよう
彼を治すことにした
彼と時を同じくするために

目に見えるものを取り除いて
頭をめぐるものを取り除いて
価値あるものを取り除いて
反復するものを取り除いて
論理的なものを取り除いて
肉体的なものを取り除いて
愛も共感も取り除いて
自分の求めているものを取り除いて
何かを感じることを取り除いて
ただ静かにする

存在の抽象化について

存在を機能として見つめたならば、
抽象化された存在は
置き換え可能な
素材へと化せられるだろう
けれども、
具体的な関係性を持ったものとして、
少しだけ広いまなざしを
その人それぞれに向けたなら、
個々の命について
置き換えは不可能になる
それは
誰かと共有した時間や思い出の変換は
不可能であり、
それぞれの人が
それぞれの愛する人々と培った
思い出を持ち運んで生活することは、
他の誰にも出来ないことだからだ

断片連用1

認識とは詩である
詩とは思考である
思考とは自己である
自己とは定義付けである
定義付けとは諦めである
諦めとは合理である
合理とは嘘の始まりである
嘘の始まりとは泥棒である
泥棒とは生きものの業である
生き物の業とは従属栄養である
従属栄養とは噴火である
噴火とは暴力性である
暴力性とは国家である
国家とは装置である
装置とは無視性である
無視性とは排除性である
排除性とは残虐性である
残虐性とは単一色のことである
単一色のこととは青空である
青空とは子供達が見上げるものである
子供達が見上げるものとは、
大人たちの笑顔である
大人たちの笑顔とは、
果たして何を意味するものか

様々な歌

全く誰かを寄せ付けないための歌もある
驚きを与えるためにつくられた歌もある
しかし、
一番人の心を潤すのは
聴いている人が
その歌により添えるような歌だ
あるいは、それは、
聴き手にも言えるのかもしれない
その人の歌をきちんと知ること
それが出来れば
どんな歌にも
より添えるのではないだろうか
歌も聴き方も千差万別
しかし、
そこにたった一つの
大事なことが
あるのではないだろうか
もし、だれかの歌が
うまく聞き取れないのなら
それを歌にすればいい
そうすればきっと
心を添わせることができるだろう

メキシコ

メキシコシコシコ
おっ、おっ、おっ、
メキシコシコシコ
はっ、はっ、はっ、
メキシコシコシコ
あっ、あっ、あっ

現代音楽

中世に入って、
音楽はひきこもりになった
音楽は成長と共に、
太陽を避けるようになり
音楽は孤独になった
小さな頃、
足で踏まれていた音楽は、
ひきこもりの後、
大きくなってから、
着飾ることを覚えた音楽は、
みられる喜びを知り、
舞台の上で充実した毎日を送っている。
今の生活に満足する音楽は、
それでもたまに、かつての様に、
人々の足の裏で暮らしたいと、
思うこともあった

詩的雑記1

愛とは受動的なものではない
けれども
完璧に能動的な愛は
ありえない
無論
人生の薄切標本上には
そのような愛も観察されうる
しかしながら、
愛は、その発生段階に着目すれば、
受動的なものだ
人はまず
愛を学ばなければならぬ
他者から自分への確かな愛を
確かな確信をもって感じること
それが愛の始まりだ
従って、ある場合には、
愛の不在が
愛する対象の不在ではなく、
誰かに愛されているという
思いの不在から始まりうる
それは、当然のことながら,
その人の過失では無い
けれども、その人は、
愛の不自然さにより
大きな不利益を蒙ってしまう
そして、さらに、その悲しみは
次世代へと伝達されうる
そして、その子孫系統は
ある種のフェイズを生き続けることになる
(勿論、その亜空間性に対し、
なんらかの折り合いをつけている人々は、確かに居るが。)
我々人類に対する評価というのは、
人間の強さというのは、
これらの問題にどう対処していくか
というところにあると
思われるのだが、どうだろうか?